四角いパレット

katataka's blog

自身の生き方

ゼミ室予約したはずなのに、
今日そのゼミ室に行ってみたら、なぜか中からネイティブイングリッシュが聞こえてきて、
なんでだぁーっ(゜∀゜;ノ)ノ
って感じでした。
勉強する気も失せて、今日は帰ってしまいましたが、
明日は朝回診後からずっと勉強がんばります!
とはいえこの2日で担当患者さんの状態が悪くなってきていて、明日急遽いろいろ処置することになったので、
私もその処置の見学にも行った方がいいのかもしれませんが.....。
それにしても、私が担当する患者さんはいつも難しいことになっていきます。
たとえば。
心カテ中、脳血栓になって片麻痺になった患者さん。リハビリを頑張っていましたが、限界もありました。
入院目的の癌以外に別の原発癌が見つかって、精査するうち全身転移が次々に見つかっていった患者さん。最後には脳転移という駄目押しでした。
腎機能低下と血栓と精神状態の不安定さで謎の経過をたどっていた患者さん。
ほかにもいろいろいろいろ、40週間で何十人もの患者さんにお世話になって、
それぞれが個性豊かな方々で、次々に症状を重複させていく患者さんも多くて、
そもそも特殊な疾患を担当させられることが多くて、それゆえプロブレムは複雑化していって、
ほかの学生に比べてやたらICに入っていたり、私のプレゼンそっちのけで議論白熱されたり、
からしてみればカルテに記載するネタにも事欠かなくて、いつも勉強になりましたが、
患者さんにとってみればきっとたまったもんじゃなくて、
そんな理不尽な運命と、次々突きつけられる治療方針に動揺されて、
自分自身の本来の「生き方」を失いかけている患者さんの様子を見ながら、
医療がいかに患者さんの「自分らしさ」をないがしろにしているか、時折感じさせられました。
それはICが不十分だとか、個性の尊重とか、そういう問題ではなくて、
「生きる」っていう営みを考える役割を、医療は請け負っていないということです。
医療はその患者さんの病態を改善するべく労力を注ぎますが、それゆえその患者さんの生き方にまでは考慮が十分に及びません。
生き方っていうのは、治療方法とか治療内容とかに左右されるような軽いものではなくて、
たとえ天地がひっくり返ってもそこにデンとあるような、そんなものの気がします。
それは本人が頑として固持する限り存在し続けるもので、
逆に言うと、どんなことがあっても本人がしっかり自分の生き方を認識し確信していられるように、
必要に応じて援助もされていかなければならないと思います。
自分の生き方を保持することへの援助。
それが、生き方に多大な損傷を与え得るこの医療において、欠如しているのではないかと思うわけです。
せめて、医療を進めるなかで、患者さんが随時自分自身を確認できるよう、
きっかけを与え促してやるべきだと思います。
今の自分の気持ちは? どう生きたいのか?
つい医療を前に抑圧してしまいがちな、患者さん自身の気持ち・生き方を、自分で確認し表出できるように、
医療者は積極的に声かけし促してやる必要があるのではと私は思います。