四角いパレット

katataka's blog

合宿の感想とか

私が介助をするなかで、ポリシーみたいなのがいくつかあります。
食事介助は、介助に専念してしまって自分だけ食べるのが遅くなるというよりは、障害者に食べるのを時折待たせてでも同じペースで食べていくのが理想だとか。
お風呂介助は、介助者だけパンツはいてするのではなくて、お互い対等に真っ裸で風呂に入るのが理想だとか。
持続可能な介助関係。
障害者を優先するあまり、介助者の自由を犠牲にしてしまうのは、
それは「一時だけ介助に耐える」という姿であって、持続的なものではないように思えるのです。
介助者も犠牲になる分つらいですし、犠牲になっている介助者に介助されている障害者も気持ち的につらいです。
まぁ、たまに「健常者は使ってなんぼ」と考える障害者もいますが(笑)、
そういう相手には特に、健常者自身の権利を主張していかなければこっちもヤラレてしまいますし、
逆に障害者も張り合いがないというものです(笑)
障害者の自由と、健常者の自由を、お互いに高いところで実現させる、
そういうのが持続可能な関係であり、そして「障害者と健常者が共存する生活」の姿なのだと思います。

腕が痛いです。
腕というか、腕の筋肉が痛いです。
腰も痛いです。
それが、介助で痛めたものなのか、寝過ぎて痛くなったものなのかはわかりませんが。
私はそんじょそこらの介助者さんよりは背筋とかあるほうなので、
筋肉を駆使して介助してしまいます。
それにちょっとしたボディメカニクスがあればもう鬼に金棒です。
ちょっとしたものだけで苦労なく介助できているので、これ以上のボディメカニクスは求めていません。
将来私が年老いて筋肉も減ってきたときは、ちゃんとボディメカニクスを考えないといけないとは思いますが。
今回の合宿で、何人かの男子学生で移乗とかの介助をしているのを見て、
一人でできないといざってとき困るよ〜 とか思っていたのですが、
でも障害者の負担を考えると、一人より二人で介助してもらったほうが負担が少ないに決まっていますし、
先ほどの「持続可能な介助関係」としても、二人で無理なく介助するのがいいに決まっています。
そもそも、健常者と障害者の割合が1:1とかそれ以下とかいうのは、
障害者施設とか老老介護の孤立世帯とかいう不自然な社会での話です。
そのような世界では、健常者一人で介助できるというのも必要条件となってきますが、
将来的な持続可能社会を考える上では、別に一人で介助できなくても、普通にまわりにいるはずの人と協力すればいいわけです。

本当はね、障害者のもとに時間を決めて介助できる健常者を派遣、みたいなことも理想的ではない気もするんです。
でも「ちゃんと介助してくれる人がそばにいる」という保証をしないと、
障害者が生活すること・生きていくことに不安になります。
健常者が一人だけで生きていくことに不安を覚える、その延長として、
それ以上に障害者は一人孤独になってしまうことが不安なはずです。
だからこの社会に生活するなかで、健常者が職場関係や同級生や隣人や家族の存在を必要としているように、
障害者はさらに自分を介助してくれる人の存在を必要とするのです。
だから、それを保証する政策を効率主義のこの社会でとらざるを得ないわけで、
結果として介助者派遣という形式をとらざるを得ないわけです。
考え方として、
持続可能な共存関係で満たしきれない不安定な部分を、介助者派遣で補えばいいのですから、
中心とするのは、健常者と障害者が対等な、いわば当たり前の関係性。
これをどう充実していくかが大事な問題で、
介助者派遣は二の次に考えるべきことなのかもしれません。
おお、財政負担を大きく軽減させる展望が見えてきた(笑)
ま、ここで注意するべき点はたくさんあるのですが。
共存っていうのは広く社会のなかで築いてきた人間関係のなかでなされるものであり、
たとえば障害者が大人になっても親が過剰に「共存」するってのはそりゃ不自然だろっていう原則。
特定の「共存する人」にだけ介助負担が偏らない、自発的な相互扶助が成立するという前提。
そう考えていくと、なんか理想論に終わってしまいそうですが(笑)

合宿係りのみなさん、初めての合宿で慣れないことばかりなのに、おつかれさまでした!
過剰に心配になったり、神経質になったりする場面もありましたが、最初だし余裕のなさも仕方ない(笑)
今回の合宿で本当に大きく成長したと思います。
さらに自信をもって、これからも頑張っていってほしいです!
そして合宿に参加したみなさん、
全体を見ながら協力しあう姿がたくさんありました。
障害者や健常者にかかわらずどの人にも配慮できる、そんな姿勢をこれからも持ち続けてください。
自分のことはさておき(笑)