四角いパレット

katataka's blog

できるだけの治療

よし、今日は尊厳死について書くぞ。
大学受験のときに、「尊厳死」をテーマとした小論文なり面接なりを通して、
私も「尊厳死」なるものについて、少ない経験(いやむしろ皆無…)から私なりに考えてみたものです。
その後、大学時代に障害者問題についてかかわるなかで、
出生前診断脳死といったテーマにも軽く触れたり、
私のなかでも考え方はいろいろ変わってきた…ハズです。
しかし。
いざ臨床に出てみると、これまで考えてきたことなんてなんだったかなあってくらい、
どう考えてきたのか忘れてしまいました。
やっぱりというか、
これまでは具体的イメージもできずに、うわべだけの言葉で「尊厳死」を語っていたなあ、と。
「個人の意思を尊重」「人間らしく生きる」「積極的な死への誘導の否定」
これらのキーワードは一見それらしく聞こえますが、
実際にそういう場面に遭遇したとき、はたしてどれだけその理想を具体的に置き換えられるでしょう。
個人の意思も、医師の説明次第で大きく変わる。
死を前にして本人も家族もそれぞれの人生観は大きく揺らぐ。
「できるだけの治療をする」の「できるだけ」は果たして人工心肺接続や永続的な胸骨圧迫をどう否定するのか。
そして私が現実に目にしているのは、
医師の説明のちょっとしたニュアンスで受け取り方も希望も方針も大きく変わるインフォームドコンセントと、
ある程度の意図的操作ができてしまう治療内容と、
その治療をよくも悪くも裏切ってくる実際の病態の変化でした。
その場の治療の仕方次第でその人の人生が、長く細くにも、太く短くにも、そして穏やかにも壮絶にもなり、
そして「できるだけの治療」が決して本人を幸せにしないだけでなく、
周りの人をもつらく耐え難い状態へ陥れる現実があります。

迫る死を前にして、たいていの家族は「できるだけのことをしてくれ」とおっしゃいます。
普通、そういうものです。
実際に死を目の前にすると、そして特に、助かるんじゃないかという期待を少しでももっていると、
死をあきらめきれない感情が強く残ります。
「現代の技術なら、なんとかできるだろう」とケンカ腰におっしゃる方もいらっしゃいました。
確かに、現代の技術ならなんとかできるかもしれません。
(私もそのとき「じゃあ、やってやろうじゃないか」と一瞬思いました…90歳の希死念慮があった肝腎不全に、CHDF回して鎮静の上で気管挿管してPCPSも導入して…と)
しかし、その要請を真に受けて、本当にできるだけのことをすると、
ちょっと大変なことになります。
担癌末期に血液透析導入。
低心拍性の多臓器不全に生体肝移植。
重度認知症誤嚥性窒息・心肺停止に経皮的人工心肺導入。
何のための「できるだけ」なのかが、よくわからなくなることがあります。
命を少しでも長らえるために、無視できない大きさの犠牲をはらわないといけないことを、いかに理解してもらうか。
「できるだけのことをする」ことが決して最善とは限らないことを、いかに理解してもらうか。
パターナリズムだとの批判もあるかもしれませんが、
しかし、「死を否認」の段階にいて、本来の主体的な判断ができない人に対しては、
ある程度の誘導を意図した病状説明は必要かと思っています。
キュブラーロスの五段階を経て受容に至るのを、病態の変化は待ってくれないので。
だから私は、その場でなんとなく納得させられるような言い回しで、
いわゆる「尊厳死」(?)の方向とする了承をいただきます。
たとえば最近の私は、
「ご本人さんが、管につながれてお話もできない状態で何か月も過ごすことを希望されるかどうか」
「無理に心臓を動かし続けることが、ご本人さんにとって果たしてよいことなのかどうか」
などとご家族に問いかけながら、「無理に延命はしないのが一番いい」という結論に導いていきます。
そして最後に一応、
「今後方針変更などの希望があればいつでもお受けします」
「相談しながらみなさんにとって納得いく形で最期を迎えられるようにしていきましょう」
などとも申し添えています。
…響きのいい言葉をちりばめただけの感が否めませんが。

こうして最期の段階のインフォームドコンセントをしているとたまに、
みなさんには、あらかじめ死生観をもってきてほしいなと、思ってしまうことがあります。
「寿命」という言葉を否定し、「いつか必ず死ぬ」という事実を拒否する人に対し、
どこからどう説明していけばいいんだか、参ってしまうことがあるんです。
病態説明だけでなく、そういうことの説明も医者のお仕事なのでしょうか。きっとそうなのでしょう。