四角いパレット

katataka's blog

医療周辺の価値観のこと

2014年夏,ある市議が自身のブログに下記を記載し話題となりました.

GVHDが発症したらほぼ100%助からないそうです。つまり免疫抑制する為に、放射線照射しなければならないのです。では、その放射線照射した血を輸血するのですが、この血液、自分の体に入れたいという方いらっしゃいますか?(笑)いや、笑いごとじゃないんですけど、今更放射線についての危険性を述べるまでもなく、こんな死んだ血を輸血してもまたすぐに輸血しなければならないのは明らかです。

また,ワクチンについて効果がないとする言動についても話題になりました.

HPVのほか、インフルエンザ、ヒブ、小児用・高齢者用の肺炎球菌、水痘の各ワクチン、総額14億3745万8760円も全く必要のない予算です。また、ポリオ、日本脳炎、BCG、ジフテリア、百日ぜきも無理をして打たなくてよいワクチンです。
平成26年第1回市議会定例会 平成26年3月4日)

(ワクチンの効果については,ワクチンの種類にもよりますが,このブログに限らず一般的にも正確に理解されていないことが多いと私も感じております...例えばインフルエンザウイルスのワクチンについて私は「ウイルスに感染しにくく(厳密には違いますが),感染しても症状が軽くなりやすい効果が期待できます」といった主旨の説明をするようにしています)
それからというもの,このブログをブックマークして,時々読ませていただいております.
現代の医療行為の必要性や妥当性について説明される機会がなかったり,その理解に必要な前提となる知識(放射線や免疫機能など)について説明される機会がなかったり,
説明される機会が少ないことが原因によって,現代医療への不信が生まれるものかと思っていましたが,
このブログのように,説明されてもなお不信であったり,あるいは否定の立場である方もたくさんいらっしゃるのが現実です.
理解の努力(耳を傾ける姿勢)が欠落しているとして片づけてしまうとそれまでなのですが,
しかし際限ない知識技術の進歩と医療費増大の間で葛藤する医療者の立場から考えると,
現代の医学的知識や技術を踏まえた上でなお,現代医療を否定し,現代医療を利用せず,人生を過ごす人たちが,
現代には存在してもよい,あるいはそういう考えも世の中には必要なのではと,ふと思ってしまいました.
理にかなった説明で成立し得てしまうことになるとおもしろいな,と.
現代医学の根拠となっている「救える命を救う」「よりよく生きたい」という当たり前に思っていた感覚とは異なる,あるいは否定する価値観が,理にかなった何かしらの論理の上に存在してしまうという妄想です.

このような方向の妄想を膨らませるとき私の頭の隅にあるのが,障害者問題です.
障害がなく平均的な能力を有して生きること,障害を克服することをよしとする考えが,現代医療における治療の姿勢と重なるのです.私の中では.
疾病と障害とは,病因と生活機能という異なるアプローチで用いられる言葉ですが,
疾病に対する介入すなわち治療が,最終的に生活の質改善を目標としているのであれば,
生活機能の差異から生まれる障害に対しての考え方とも似てくるのではと思うのです.
現代医療における治療も,かつての障害者対策も,
いかに生活機能低下状態から平均レベルへ引き上げるか,「よりよく」生きられるようにするか,という介入です.
この「よりよく」という価値観を医療者や健常者はあたりまえの人生観として,押しつけに近い形で患者や障害者へ治療し恵み与え介入してきました.
でもこの人生観は,勝手な思い込みで,すべての人が共有する価値観ではなかったのかもしれません.
その状態で生きることを,その人は困っておらず,望んでいるのかもしれない.

  • 慢性膵炎で何度もお腹が痛くなるけれど,お酒は生きがい.
  • 少し歩くだけで息がつらくて咳も止まらなくて何とかしてほしいけれど,食後のタバコは人生で一番大事.

このような人に禁酒や禁煙を強要する介入は,よかれと勝手に思い込んだ侵害なのかもしれません.

  • 心臓弁置換術後の傷が今でも痛むので,胃の手術でお腹に傷をつけられたくはない
  • 富士山麓の水しか飲まないことにしており,点滴薬の採水地が不明なので投与されたくない

こういった患者に治療を強要することは,疾病以外でいうところの,

  • 公園を車いすでのんびり散歩していたら,通りがかりの人が断るのも聞かずに車いすを押してきた
  • ラソン大会で息絶え絶えになりながらもゴール目指して走っていたら,観客がおんぶしてくれた

という,本人の望まない介入,勝手な思い込みや価値観の押しつけなのかもしれません.
もっと心地よく安寧に過ごし生活できる方法があることをまわりも本人もわかっているけれど,
たとえば胆嚢摘出術後の傷の痛みが相当辛くて二度と同じ目に合いたくないのかもしれないし,富士山麓水のみが自分の命の根源だと考えているのかもしれない.
本人にとって今の一見つらい大変な状況で生きていくことがより望むことであり,それを制止すべきではないのかもしれない.
これが,安楽死や自殺の肯定にまで話が進むと,自己の価値観と一般的な価値観とのすり合わせが逆の方向に必要になってくるのでしょうけれど.

医療に関する知識や事実を説明し市民に理解していただく責務は常に医療者にはあります.
たとえば,胃の手術でできる傷が以前の胸部手術の傷ほど痛むとは限らないことや,採水地による体への影響の差異は科学的には極めて少ないことを,説明し理解していただく責務があります.
先のブログでいえば,いわゆる「輸血」で補充される血球の性質,代替となる細胞外液補液の限界性,放射線照射の具体的な作用などの説明と理解でしょうか.
一方で,その理解していただく努力にもかかわらず,「本当に医療業界というのは「腐り切っているなあ」というのが実感です。」として信じてもらえない方もいらっしゃいます.
医療者としては「我々の力不足で理解していただけなくて申し訳ない」「無知による悲劇を防ぎたい」と,理解していただけるよう努め続けます.
理解していただけるよう努め続ける状態が前提です.
その状態で,医療を否定する人たちの存在は,自己決定としてまずは尊重されるべきです.
輸血拒否のケースでも,医療者は輸血の必要性について理解していただけるよう努め続ける責務がありますが,輸血拒否の意思を尊重する必要もありますので,同意がない限り輸血はしません.
この状況は複雑ですが,端的に考えると「人生観の尊重」として解釈できます.
助かる可能性のある命を救いたいという一般的な人生観と,助かる可能性への意図的操作介入はせずあるがままの生き方をしたいという人生観の違い.

相反する人生観の収束について少し実際的な話.
先に述べた「助かる可能性(確率)」について,それがどれくらいのときどちらの選択をするかという問題に私はよく悩まされるのですが,
これについては自問自答しつつも,その確率についてなるべく正確に伝わるよう説明し,
どちらの選択をするか,本人たちの人生観に大きく背くことがないように注意しています.
助かる可能性に応じた治療選択の誘導がパターナリスムであれば,それが本人の人生観・価値観への介入や侵害につながらないよう注意しなくてはなりません.
人生観が一致すればよいのですが,程度の差はあれ異なるものなので,それをいかに歩み合い落としどころをつけていくか.
病態の進行はいつまでも待ってはくれません.病態や治療についていつかどこかしらの妥協点へ収束していかなくてはならないのです.
二者の歩み寄りの作業,収束への共同作業をおろそかにしないことが,現場では必要と感じています.

以下メモ書き;

  • デューク大学医療センターは、「輸血は、益となるより害となる可能性がある」との研究を発表している。」の元論文 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17940022
  • 「A・J・シャドマン博士は、「私は、2万例以上の外科手術を行ってきたが、輸血を施したことは一度もない。普通の食塩水を多く含ませただけである。そのほうが、一層よく、また安全である。血を失ったどんな症例にもこれを使ってきたが、死亡例は1つもなかった。チョークのように血の気が失せ、石のように冷たくなっても患者は生き延びてきた」と報告している。」の出どころ Who is your doctor and why? (1958, Alonzo Jay Shadman) 同博士の論文はPubmedで検索する限り1946年の1件のみ http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21007082

時折,科学論文が一般のニュースになることがありますが,報道者に都合よく解釈され誤った主旨で報道されることが多々ありますよね.上記のデューク大学の論文についても,「輸血が益となるより害となる可能性」は輸血が有益でない症例に輸血することでNOが低下し有害性のみ表出してしまうという限定的な可能性のみを取り上げた扱いとなっており,論文の主題である「NOの補充による病態改善の可能性」とは方向が違った解釈となっています.こういった本来と異なる方向に解釈が独り歩きするケースがあることには注意すべきと思います.