四角いパレット

katataka's blog

この前のかんそう

知的障害のある学生を普通教育(特に義務教育以降の高等学校)に入学させようとする活動があります。
教育界では近年「特殊教育」に替わる「特別支援教育」がトピックですが、
それをすっ飛ばして(?)普通学校に(そしてさらに普通教室まで)どーんと放り込もう!
そういう、障害者が一般peopleの中に普通に存在する社会こそが、求める方向ではないか?
ということだと思われます。
私はあまりその辺の詳しい事情や知識を持ち合せていないのですが…

その普通学校へ入学させようとしている障害児(もう者だけど)の母親の話を聞いたのですが、
誰のために普通学校に固執しているのだろう?という疑問がわきました。
彼女は「心を育てるために」と語りますが、それは誰の心のことを言っているのだろう。
知的障害者自身を育てるのか?
それとも彼ら彼女らを取り囲む健常者社会を育てるのか?
家族(主に親)を育てるのか?
「健常者社会のなかで生き生きと青春を過ごしてほしい」
それは健常者社会にのみ「生き生きとした青春」があるということなのか?
本人にとっては知的障害の社会で生活する方が、
生活リズムも自分に合っているかもしれないし、生活しやすいかもしれない。
それなのにあえて健常者社会に求めていくのは、それはけっこうエネルギーの必要なことだと思います。
それなのに、あえてやっていく。
それは、あえて地域で生活しようとしていく重度身体障害者の姿にも通じるところがあります。
障害者にとっても、誰にとっても住みやすい社会にしていこう、という理念を強くもった行動なのかもしれません。
それ以外にどんな理由があるでしょう?
現時点で、障害者への対応がままならず、しかも他の健常学生の統率もままならないかもしれない教育現場に、
障害者を入学させようというのは、混乱を招くのは誰もが予想できます。
それなのにその入学後の対応方法もお互い理解し合えず譲り合えないまま平行線をたどっているのに、
ただ入学という行為の達成だけに目標を固執するのは、
それは障害者本人のことを考えているというよりは、そして社会をよりよくしようと考えているというよりは、
周囲の勝手な偽善というか、思い込みというか、確信犯みたいなことに思えます。
手段が目的化してしまっている気がするんです。
本人のことを考えて活動しているのでしょうか。
それともそれを受け入れる社会の成長を期待して活動しているのでしょうか。
その辺の、親の本意に私は興味を持ちました笑
もし本人のことを考えて活動しているなら、
そしてその本人が、健常者のなかで過ごすことこそが自分の過ごしたい環境だと思うのなら、
障害者を理解してくれる教育環境を求めるべきです。
そうすると、入学に固執するような活動にはならないはずです。
教育委員会への働きかけも、単に署名の提出とかではなく、
もっと個人対個人の積極的検討になどに変わってくるはずです。たぶん。
まあ、普通学校で放置してくれるのを望んでいるのなら、入学に固執するのは否定しませんが。

なんかきつい言い方になってしまいました。ごめんなさい。
ただ、障害者関連の活動で私がいつも協調できないのは、
こういったところでもあったりします。
署名は手段でもない。社会啓蒙以上のなんでもない。だから社会啓蒙として用いる分にはよい。
けど、署名をもって本当に役所を説得できると思ったら大間違いです。
日本における署名ほど信用ならないものはないです、極論ですが笑
自分が何をしたいと考えているのか、そのためにはどういった行動をするべきなのか、
自分の個人的な感情が無意識に活動内容に影響してはいないか?
何を目的としているのかわからなくなってはいないか?
それを時折確認しながら活動を進めていってほしいです。
乱文失礼しました汗