四角いパレット

katataka's blog

どうすればよかったんだろう

あ〜疲れた。
ターミナルの患者さんって、むずかしいっすね。
何をもってしてターミナルと呼ぶのかも謎ですが。
ターミナル=終末期。終末期とな何ぞや?
もしかしたら、全力で医療資源(物質的にも人材的にも)を投入したら助かるかもしれないけど、
でも「終末期です」とみなすことで、そのアプローチの仕方が変わってくる。
それは諦め?医療者の?家族の?社会の?
カルテで看護師さんが「S(主訴)」の欄に、その患者さんが言った言葉「切ない」ってのが書いてあるのを見て、
ちょっと泣きそうになりました。
大学のとき私は、障害者の自立を支えるなかで、「何が何でも生きてやる!」みたいな思考に染まっていて、
「だから麻痺だろうと何だろうと、生きてみろ!私たちには生きれる社会を作ることができるはずだ!」みたいな大口叩いていて、
だけど実際は、次々に救急外来に搬送されてきて即入院になる患者さんの病態把握と加療方針を追うのにいっぱいいっぱいで、
とても、その退院後の社会生活とかに思いをめぐらす余裕が、私の時間的にも精神的にも、ないんです。
目の前の現実に追われている感じです。
大学を卒業するときは(そして今でも)、急性期の時点で治療後の日常生活を思い描ける医療従事者になりたいと本気で思っていたのですが、
それは口で言うのは簡単だけど、実際は本当に難しいし、きれいごとだなあと実感する今日この頃です。
まだあきらめてはいないですけどね。求める方向としては持ち続けてる。
でも、答えなんてないし、最善といわれる方針も、本当にこれでいいのかっていう疑念がいつも付きまとう。
本当に積極的治療をしない方針にしてよかったのか、とか、
低体温療法でがんばってはみたものの、麻痺や意識障害が残って、本当にこういう形の結果にいたることがよかったのか、とか。
「麻痺があってもいいじゃん!麻痺があるだけだよ!」とか、「意識がなくてもいいじゃん!社会の制度がその生活を保障すれば問題ない」とか、
簡単に考えてしまえたのが以前の私でしたが、
障害を否定はしないにしても、強引に生かそうという行為が、ときにその人権を侵害しているようにも思えてしまうこともあり、
「寿命」という概念との折り合いっていう新たな問題を考えると、ただ命を救えばいいってもんじゃないなあと再認識させられます。
かといって、じゃあどこまでをして、どこまでをしないか、
それを考えるのがまた難しい。
できれば専門的な知識と経験を持った医療者が、その治療などの結果もたらされる本人への負担や予後の推測をもってして、
本人やご家族が想像する最良の身の振り方(?)を選び出せるよう(あるいは創造しだせるよう)手助けできたらいいんですけど、
本人や家族も何がいちばんいいんだかわからないし、医療者もわからない。
選択肢を一元的に比較することができないんですよね。
予後と生活や生き方とそれまでの経緯とリスクと、いろんな要素が含まれていて、それが問題を複雑化させているんです。
あ〜どうすればいいんだろ。どうすればよかったんだろ。
患者さんを前にしながら、あるいは患者さんとやり取りしながら、ぼんやりと考える今日この頃です。

けんしゅーいしつのパソコンで一気にがーっと打ち込んでしまいましたが、
わかりにくい文章ですね。すみません。あまり何度も読むような大した文章ではないので、気にしないでください。